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老婆イヌ 第一章

投稿日:2006年5月24日

「ねえ、パパ?」

呼びかけられた父親は、少し離れた場所で橋の欄干にもたれながらこんこんと湧き出る水を覗き込んでいる自分の娘に目を向けた。
御影石の間から橋の下へと流れ落ちる湧き水を受けるその池は、禅都の象徴とも言えるものだ。禅都の外壁と内壁の間にある池の周辺には公園が設けられ、様々な木々や草花が咲き誇っている。少女とその父の横を、街の人々が通り抜けてゆく。

「なんだい、マヤ?」
「えーとね……」

少女は眉をひそめ、水面に目を凝らしながら続けた。

「このお水はどこから来るの?」

愛娘が滑り落ちないように注意しながら、少女の父親は彼女と一緒に欄干から身を乗り出し、池を眺めて少し考えると、

「井戸と同じじゃないかな。地面より深い、地下から来ているんだよ」

と答えた。返事を聞いてマヤは少し納得したようだが、再び湧き水が注がれている池に目を向けた。

「ねえ、パパ?」
「なんだい?」
「このお水は、ぜーんぶどこに行ってしまうの?」

少女の父は、そんなことを考えたこともなかった。放水される箇所も無いのに、池には常に湧き水が流れ込んでいるのだ。幸運なことに、少女の父は彼の母が言っていたことを思い出し、とっさに親らしく振舞った。

「それはね、魔法なんだよ」
「わぁ!」

少女の目はキラキラと輝いた。

「パパは魔法が使えるの?」

横を通り過ぎる若い女性が少女の熱心な様子に思わず笑みをこぼす。

「いやぁ、お父さんには水を……」

と話し始めたとたん、少女の父の話は突然の大声にさえぎられた。

「見よ!!」

公園にいた人々の目は全てその大声がした方に注がれた。凍りつくような静寂の中、禅都の内壁に葺かれている瓦の上を歩く音が聞こえた。逆光のために、その声が骨ばった中年の女性から発せられたものであるとわかるまで2、3秒を要した。彼女は立ち止まり、人々を指差しながら見下ろした。

「その日が来る! 何人たりとも逃れることはできない! 全て死に絶えるだろう!」

マヤの父が娘の肩を抱いて自分に引き寄せ、その場から離れようとしたとき、着物を粋に着こなした若い男 −建築士ヤツエの息子− が壁の上にいる女に向かって声をかけた。

「婆さん! そんなところに登って何をしてるんだ! 怪我する前に降りてこい!」

瓦の上に立つ人影は、その声に振り向くと同時に少し足を滑らせ、群集から叫び声が漏れた。

「黙れ、単細胞の小僧め! これは予言、わしが伝えるべき予言なのだ!」

その間、マヤはかろうじて父に尋ねる事が出来た。

「パパ、あの女の人は誰?」

しかし少女の父は、既に少女を橋から連れ出していた。

「来るんだ、マヤ」

と、口早に言いながら。

二人の背後から、先ほどの若者が罵声をあげているのが聞こえた。

「このくそばばあ! 引きずり下ろされる前にとっとと降りてきやがれ!」

群集の中からは同意する声も聞こえてきたが、老婆は全く意に介さずに続けた。

「恐ろしい、見慣れぬものたちが空を埋め尽くすだろう!」
「黙れ!」

誰かが向こうの方で叫んだ。

「目覚めたとき、お前たちは見知らぬ場所にいるだろう」

群集から離れるにつれて、老婆の声は徐々に小さくなっていった。公園の外に出た後、少女が先ほどの質問を繰り返す前に父は答えた。

「あの人は、お父さんとお母さんが知っている人だよ。さぁ、急いでお母さんのお店に行くんだ。いいね? 私もすぐに行くから」
「でも、もっと見……」
「マヤ、言われたとおりにしなさい」

少女の父は、娘がわがままをいわないよう、肩に手を置いて言った。
少女は母が働く店、『食事処こく』がある街の西へと向かった。少女の父は、娘が道具屋を過ぎるまで見送ると小さくため息をついた。

そして彼は振り返り、相変わらず群衆に向かって身振り手振りで話している人影を見つめると、何が起こるのかを見るために足早に戻っていった。

「気のふれた婆さんめ」

とつぶやきながら。



「マヤ!」

公園を散歩していた二人の少女は、橋の向こう側を走る若者のほうを振り向いた。

「おーい、マヤ!」

いきなり呼びかけられた彼女は、一緒に歩いていた友人のトモエが必死で笑いを抑えているのがわかった。マヤそれまで楽しげだった視線を冷ややかなものに変えて、近づいてきたケンに目を向けた。

「あら、ケン……」

マヤは迷惑そうな様子で彼に返事をした。

「あぁ! ごめんごめん! 別に大声を出すつもりは無かったんだけど、探しに探してようやくキミが見つかったからさ!」

トモエは居心地が悪そうなマヤを見てもう笑いをこらえきれなかったが、すばやくケンに背を向けて笑いを抑えた。

「な……」

ケンは一瞬、なぜ自分が笑われるのかわからなかったものの、すぐにマヤに向かって言った。

「ち、違うよ! 僕はただ、キミのお母さんから『こく』に戻るようにって言い付かっただけなんだ」

マヤの母は、様々な料理が自慢の『食事処こく』で働く料理人の一人だ。彼女は禅都に育つ大半の若者と同様に、早くから将来の道を決めて、10代になるとすぐに職業組合で見習いを始めた。しかし、母と違ってマヤは料理に興味を持つわけでもなく、自分自身何をしたいのか決めあぐねる毎日だった。

(私もケンと同じみたいだわ)

彼女の母親がどうやってケンをつかまえることが出来たのか、マヤは苦笑しながら考えた。ケンもマヤと同じく、何もせずにふらふらとしていたところをつかまったに違いない。

ちょっと間をおいてから、マヤは今後の迷惑ごとを避けるために、

「じゃあ行きましょう!」

とケンに返事をし、トモエには軽く目配せして、

「ごめんね!」

と声をかけた。トモエはもう一度くすっと笑うと、二人に向かって手を振って見送った。

数分後、マヤとケンは何かが焼けるいい匂いが漂う『食事処こく』の前にいた。
二人が店の中に入ったとき、マヤの母はちょうど石造りのオーブンから焼きたてのパンを取り出したところだった。彼女はパンを冷ますためにテーブルの上に滑らすと、二人に目を向けた。

「ケンタロウ! マヤを見つけてきてくれたのね!」

手から小麦粉を払いながら、マヤの母は言った。

「あなたたち二人に、ちょっとお使いを頼みたいんだけど?」
「ええ、お母様!」

マヤはとびきり元気よく返事をした。母親が自分の代わりにケンを送ったと確信していたが、それがマヤを困らせたことを悟らせるつもりは無かったからだ。

「いい子ね!」

マヤの母は微笑むと、はずしたエプロンを片手にマヤとケンをテーブルに呼んだ。

「これなんだけど」

テーブルの上で冷めてきたパンを指差しながら彼女は言った。

「イヌ婆に届けてきてくれないかしら? ここのところ音沙汰が無いのよ。元気かどうか見てきてほしいの」
「え、イヌ婆に?」

ケンは驚いた様子で言った。

「その、つまり、あの廃墟に住んでるお婆さんに?」
「そのとおり!」

マヤの母親は笑顔で言った。

「じゃあ、よろしく頼んだわよ!」



それから1時間後、焼け付くような太陽の下、砂漠を越えて行くケンとマヤの姿があった。ケンは家に伝わる大小の刀を背中にくくりつけていた。
マヤも脇差を腰に下げてはいたものの、面倒ごとにならなければと願っていた。目的の廃墟はデスウォッチビートルの幼生体だらけではあったが、扇動されでもしない限り安全だし、砂漠に棲むオークたちももっぱら砂漠の奥の方にいるのが常だった。

暑さに文句を言うことと冗談を言うことしかない、つまらないお使いだった。しばらくすると、イヌの家が見えてきた。暑さで空気が揺らぐ真っ昼間だったが、漆喰で出来たその建物はまごうことなく砂漠の上に建っていた。

「おかしいわね」

マヤはそう言い、開け放たれている家の玄関に足を進めた。

「ドアをつけてないことが?」

皮肉るケンをちらりと見るとマヤは続けた。

「違うの。お婆様のルーンビートルのクライがいないの。いつもこのあたりにいるはずなんだけど……」
「でも足跡が見つからないし、ここしばらくいないに違いないよ」

家の周りを見てケンが言った。

「イヌお婆様!」

マヤは家の中に入りながら大声で中へ呼びかけた。

「おいでですか? 入りますよ!」

しかし、家の中は完全に空だった。二人は窓がなく一階よりひんやりした二階の部屋に座り込み、少し休んだ後、これからどうしたらいいのかを話し合うことに決めた。

「ここでずっと待ってるわけには行かないよ」

とケンが言った。

「たしかにそうね。でもクライがいないなんて、本当に変だわ。いつもここを守ってるのに」
「ともかく、今はどうする? 帰った方がいいかな?」
「ええ。ただ、もう少しだけここにいましょうよ。居心地がいいし、休憩にはもってこいだわ」

ケンはうなずいて同意を示すと、床に落ちていた骨のかけらを拾い上げて言った。

「これ、イヌ婆の食べ残しかな? どう思う?」
「とんでもない! お婆様はただのお年寄りよ!」

マヤはケンに嫌悪の眼差しを向けた。
ケンは部屋中に散らばっている骨に目を向けると、嘲るように言った。

「どうかな」

マヤが反論しようとしたその時、階下で何か物音が聞こえた。ケンが階段から身を乗り出し階下を覗いて囁いた。

「マヤ、信じられないよ、ボーンメイジがいる。こんなところにいるはずないのに」
「無視しましょうよ!」

マヤは鋭く小声で返した。

「そのうちまた砂漠に戻っていくわよ!」
「そうだな……」

ケンはもっとよく見ようとさらに身を乗り出した。

「それにそんなに身を乗り出したら危ないわ! 落っこちちゃうわよ!」
「落ちやしないさ! 大体キミはさ……ああぁっ!?」

マヤへ文句を言おうとしたとたん、ケンはバランスを崩して一階へ落ちた。

「ケン!」

叫びながら大急ぎで階段を降りたマヤが見たのは、ボーンメイジが杖を振り下ろし、ケンにパラライズの魔法をかけるところだった。
しかし、その骨だらけのアンデッドは、ケンに魔法をかける代わりに杖をマヤの腹にめがけて振るい、彼女は壁に打ち飛ばされた。急に動きを変えたせいで杖を振るうスピードは遅く、大した痛みは負わなかったものの、彼女は一瞬動くことが出来なかった。

マヤは脇差を抜き、壁につたってバランスを取りながら立ち上がろうとしたが、ボーンメイジが既に呪文を唱えているのが目に入った。彼女がボーンメイジに向かって突進し、魔法攻撃を邪魔しようとした瞬間、ボーンメイジの頭の下から2本の刃が現れ、その頭骨をきれいにはねた。
ケンは刀を持つ手を震わせながらも魔法から立ち直ると、後ろによろめいた。マヤはボーンメイジをドアの方に押しやりながらその首とあばら骨に切りかかった。マヤの刃は骨の間に食い込んだが、ボーンメイジはもう動くこともなく、なんとかマヤは刀をそこからねじりとってケンの元へと急いだ。

「大丈夫?」
「ああ、少し驚いただけさ。パラライズの魔法を食らったんだけど、たいしたこと無かったよ。ちょっと腕が痛いんだけどね」
マヤは大きくあざが出来た腕を取り、精神を集中させた。そしてやわらかく呪文を唱えた。

「In Mani」

ケンの腕を柔らかな光が取り囲み、そして消えた。

「マヤ! なんだか良くなったみたいだよ!」

右腕を伸ばしながらケンが言った。

「一体どうやったんだい?」
「お父様が教えてくださったの。でも、私はあんまり上手じゃないのよ。ちょっとした回復魔法よ」
「包帯も使わないなんて」

ケンは驚きを隠そうともしなかった。マヤはうなずくとケンを立ち上がらせた。ケンはマヤがあまり嬉しそうな様子でないのに気づくと、話を変えるために言った。

「なぁ。なんでここに骨ばかりあるのか、これでわかったよ」

マヤはいぶかしげにケンを見ると、外に出た。



その夜、二人は禅都に戻ることができた。マヤは何が起こったかを話すために母の元へ、ケンは腕の具合を見せるためにヒーラーの元へとそれぞれ向かった。家の前まで来ると、母がマヤの帰りを待ち受けていた。

「マヤ! 無駄足を踏ませてしまってごめんなさいね! 居なかったでしょ?」

マヤは驚いて返事した。

「居なかったわ! でも、どうして知ってるの?」
「あなたたちが出かけて行ったあと、イヌ婆のルーンビートルのクライを街の西で見たって言う噂を聞いてね」
「驚いたから、ダイイチに聞いたのよ。ほら、ヤツエのとこのカッコいい息子さん。そうしたら、今朝早くイヌ婆を街の中で見たって言うじゃない!」
「え?」
「でも、ダイイチときたらイヌ婆をからかったらしいのよ」

マヤの母親は続けて言った。

「またイヌ婆が市場の近くで“説教してた”らしくて」
「ダイイチはいつもそうよ」
「とにかくね、ダイイチがいうには、イヌ婆はそれまでにも増してひどかったって言うの。そこにいた全員をムーンゲートに連れて行こうとしたっていうのよ! しかもイヌ婆はムーンゲートを通って行っちゃったのよ!」
「何も驚くことじゃないわ、誉島に行ったんじゃない?」
「それが違うのよ。イヌ婆がゲートを通る前に、ブリテインに行くって言ってたらしいの!」

マヤは驚いた。イヌ婆がこの小さな田舎町の外にまで騒ぎを広めるなどとは思ってもいなかったからだ。

「でもイヌお婆様は、そんなところに行ったことも無いんじゃない? 危ないわ!」
「そうなのよ……。こんなこと頼みたくはないんだけど……」

マヤの母はためらいがちに、自分の娘に目を向けた。

「だけど?」
「明日、ケンと一緒にイヌ婆を探しに行ってきてくれないかしら。心配なのよ。お父様だったら、絶対にイヌ婆を行かせやしなかったと思うの」

マヤはうなずきながらも、まだ見ぬブリタニアの首都へ行くことに興奮と不安を隠せないでいた。王国のどこにも行ったことは無かったし、その中でも一番の街とくればなおさらだ。禅都にときおり訪れる異国の商人たちと何度か顔を合わせるぐらいで、知り合いでさえ行ったことなどない場所だ。

「わかったわ、ケンに聞いてみる」

マヤの母は少しだけ微笑むと、

「明日はとびきりのお弁当を作るわ。ちゃんと連れて帰ってきてね?」
「わかったわ、お母様。約束します」

翌朝、マヤはケンに相談した。マヤの頼みごとは、常日頃から街の外に出たいと思っていたケンにとっては願ったり叶ったりな話で、程なくして二人はムーンゲートの前まで見送りに来たマヤの母とその友人たちと共にいた。

「忘れちゃだめよ! フェルッカじゃなくて、トランメルのファセットに行くのよ!」
「わかってますって」

二人は即答だった。

「彼女は、まだ私が10歳だと思ってるんだわ」

マヤはケンにそう耳打ちした。ケンは耳を傾けながらも、

「もし本当に10歳だと思ってるなら、こんなこと頼まれないのはわかってるだろ?」

と言ったのでマヤは赤面したが、すぐに気をとりなおした。

別れを告げると、マヤの母は二人に食べ物の入ったナップサックを渡した。ケンは、バックパックをベッドロールといっしょに抱えあげた。
そうして二人はムーンゲートのほうを振り向くと、一人、そしてもう一人とゲートをくぐった。(トランメル、ブリテインよ)マヤは心で念じた。一瞬全てが暗闇となり、そしてマヤの心はいろいろな音でいっぱいになった。気がつくと、マヤはどこかに着いていた。
マヤの母の隣に立っていた女性が、ムーンゲートを見ながらマヤの母に声をかけた。

「ナナコ、本当にあの二人にイヌ婆の後を追わせて大丈夫なの?」

マヤの母親は少し間をおいて言葉を返した。

「他に誰がいるというの? イヌ婆はマヤを知っているわ。それに、私には理解できない何かが起こっているのよ」
「だからこそよ! 危険かもしれないでしょ!」

マヤの母親は笑顔で来た道を戻り始めた。

「だからケンにも頼んだのよ!」



西ブリテインの銀行は街外れにある古い建物で、ブリテイン城の堀を越えたところにある。機能第一に作られた建物なので、街の他の建物のような装飾や優美さといったものはない。外壁は灰色のブロック、屋根には敷石が並べられている。背の低いずんぐりしたこの建物は、その見せ掛けに反して、実は、城を除けば街中で最も防御が固い堅牢な建物なのである。

しかし、目を惹いたのは銀行の前庭をそぞろ歩く人々である。皆、何かの仕事で訪れたり、ここから出かけて行こうとしていた。銀行の地味なたたずまいとは対照的に、マヤは行き交う人々や街に溢れるとりどりの色の中で右往左往していた。

身分が高いと思われる一人の夫人が、豪奢な白い上着を着て通り過ぎた。装甲をつけた馬に乗った男性が銀行の角に近づいたと思うと素早くその馬をランプポストにつなぎとめて馬から飛び降り、颯爽と銀行の中に入っていった。
そこかしこで、物を売る人々や仕事をもちかける人々の声がしていた。マヤはそのような奇妙な服装をした人々を見るのは初めてだった。ケンは様々な珍しい動物に乗るこれほど多くの人々を今までに見たことがなかった。

「マヤ、もしかしてあそこの人はビートルに乗ってるのかな」

彼が指差した先を見ると、そこにはたしかに、黄色と桃色というひどく派手な色合いの服に緑色のエプロンのようなものを身につけた男の人が、巨大な青いビートルに乗っていた。

「……少なくともクライほど大きくはないわね」

マヤはぐっと息を呑んだ。

二人の上に影が差したので振り返って見上げると、そこには巨大な青白いドラゴンの嘴があった。ケンはすかさずマヤを腕の中に抱えていた。すると、大きな翼の片側の陰から男の人が降りてきた。

「やぁ、こんにちは! 丈夫な力持ちの動物に興味がおありかな? たったの30万ゴールドですぞ!」

ケンはその快活な男性を見つめた。彼は、そのドラゴンの鱗と同じくらい白いシャツを着ており、おかしなことに道化師の帽子をかぶっていた。ケンが返答に詰まっているとマヤが言った。

「いいえ、結構です。私たちは友人を探しているんです」

雑踏の中なので、ほとんど叫ぶように話さねばならなかった。がっかりした様子も見せず、帽子を手にお辞儀をしながら彼は大きな声で言った。

「そうですか、うまくいくといいですな!」

そして、彼はドラゴンに乗りかかりざまに振り向いて、

「動物のご入用ならばジェスをごひいきに!」

と言った。
マヤは力なく手を振り、その男は群集に飲まれていった。低い唸り声を上げながら、人々が道を開ける間を悠々と歩いていく巨大なドラゴンは、あたかも人々の頭上に浮かんでいるようにも見えた。

「ねぇ、あっちへ行こうか」

ケンはマヤを道路脇へと導きながら言った。彼の指差す先には、銀行の向かいの小さな丘があり、人々が暇そうに座っていた。

「そうね!」

程なくして、彼らは丘の横の道を登り、古い松の木のふもとの空き地に着いた。二人は息を切らしながら腰を降ろし、これからについて思いをめぐらせた。

「こんなにたくさんの人の中で、どうやったら彼女を探せるのかしら」

マヤが苛立ったように群集を指差し、

「だって、これはこの街のたった一部分でしかないと思うの」
「うん、でも街の他の部分はこれほど混雑していないんじゃないかと思うんだ」

ケンはうなづいて言った。

「たぶん、ここが禅都みたいな商売の中心地だと思うんだ。あの人たちをごらんよ!」

すると、そこへいきなり話しかけてきた者がいた。



「ブリテインは初めて?」

彼らは振り向く必要もなかった。なぜなら彼らの間に少女が一人、ちょこんと座って後ろ手に反り返っていたからである。その女の子は、自分が突然現れたため二人をどれだけ驚かせたかわかっていない様子だったが、すぐに気づいて言った。

「あ! 驚かせるつもりはなかったのよ!」

彼女はシンプルなピンク色のドレスを着ており、突然現れたということを除けば、いたって普通の少女だった。

「いったい……」

マヤが口を開いた。

「キミはどうやって?」

ケンが締めくくった。少女は少し慌てた様子で、

「どうか許して! これはただの呪文なの。あなたたちが腰を降ろしたとき、私ここで練習していたの」

彼女はマヤの方にかがみこんで見つめた。

「本当なのよ! あなたとあなたのお友達は、この辺の人じゃないみたいね。私、わかるの」

ケンは驚きよりも好奇心の方が勝って咄嗟に、

「うん、僕たちは禅都から来たんだ」

と、言ってしまった。その年若い魔法使いは、ぱっと前方に飛び跳ねると彼ら二人に向き直った。

「禅都! そんなに遠くから来た人に会ったのは初めてだわ! お知り合いになれてうれしいわ。私の名前はハーモニー」

そして彼女はお辞儀をしたが、それはマヤにとって少し奇妙に写った。なぜなら彼女は座っていたからである。

「こちらこそお知り合いになれてうれしいわ、ハーモニー。私はマヤ、そしてこちらがケンよ」

マヤは、できるだけブリタニアの訛りに合わせながら言った。ケンはいたく感動した様子で、

「ケンって呼んでくれ」

と手を差し出した。ハーモニーはその手を握ると、いぶかしげに、

「でも、彼女あなたのことをケンって紹介したわよ」

と言った。ケンは少し当惑しつつ、

「ああ、そうだね、ごめん。僕のフルネームはケンタロウっていうんだよ」
「まぁ、それじゃそう呼びましょうか?」

マヤは笑いだした。

「いや、だからケンでいいんだよ、ごめん」

ケンは必死に説明していた。

「失礼、ハーモニー。あなたは呪文を唱える練習をしていたと言っていたわね?」

マヤが助け舟を出した。これはハーモニーの気を惹くのに充分だった。

「そうなの! このインビジビリティっていう魔法は私のレベルより上の魔法なんだけど、もう少しでものになりそうなの!」

彼女はとても活気に満ち溢れていたので、ケンとマヤが対照的にぼんやりしているように見えた。

「あなたたちに話しかけたから、集中力が薄れちゃったんだわ」

彼女はそういうと楽しそうに笑った。ケンとマヤは感動していた。彼らはブリタニアの魔法について聞いたことはあったが、姿を消す術は忍者のものだと思われていた。

「それで、どうしてブリテインまでやって来たの?」

ハーモニーがたずねた。
マヤは、すでに自分たちの目的をすっかり忘れてしまっていたので、答えるのにしばらく時間がかかってしまった。

「私たちは家族の友人を探しているの。彼女がブリテインに来ていると聞いて、それで探しに来たというわけ」
「わかったわ! 徳之諸島から来た人は少ないのよ。彼女の名前は?」
「イヌ。かなり年を取った女性で、名前はイヌというんだ」

ケンは、礼儀正しくしようと繰り返して言った。
ハーモニーはしばらく考えていたが、

「うーん、そういう名前は思い出せないわ。でも、実は私自身もここに来てまだ数日なの」

今度はマヤの番だった。

「あなたはどこから来たの? ハーモニー」
「マジンシアよ。ご存知?」
「ごめんなさい、知らないわ」

ハーモニーは一向に気にせず、東の方を指差して、

「ヘイブンの北にある、ここから遠く離れた島なの。私の家族はもう何代もそこで暮らしていたの」

彼女は優しく言った。そして彼らの方を振り向きながら、

「もちろん、ムーンゲートだってあるわ。みんなが思うほど遠くにあるわけじゃないと思うんだけど」

そして、ふと奇妙な表情を浮かべたが、次の瞬間また笑顔に戻った。

「私も同じことを思ったの」

マヤが応えた。

「私はブリテインに来たことがなかったのだけど、思ったよりも大変じゃなかったわ。ゲートをくぐったらあっという間だったわ、その後、しばらく歩かなきゃならなかったけれど」

ハーモニーは笑った。

「そうね。でも、行き先を間違ったちゃったりすると、ちょっと大変だったでしょうけどね」

ケンは、ついつられそうになったが話を本題に戻して言った。

「ハーモニー、どこか情報を得られるところを知らないかい? 僕たち、本当にイヌ婆さんを探さなきゃならないんだ」

ハーモニーはしばらく考えこみ、おさげにした赤毛の髪を引っ張っていた。

「たぶん、『キャッツ・レイアー』かしら。そこの裏手にある居酒屋なの。酔っ払いたちの中に一人や二人、噂好きがいるはずよ」

ケンは指差した方向へ向かおうとしたが、突然マヤが言った。

「ううん、私たち動かない方がいいと思うの」

彼女は驚いた表情で銀行の方を見つめていた。ケンも驚きのあまり息を呑み、ハーモニーはもっとよく見ようとまた二人の間に入ってきた。



銀行の屋根の上、一人の年老いた女性が淵から下の群集を見下ろしていた。誰か彼女に気づき、他の人々も何ごとかと集まってきたのだ。

突然イヌは叫んだ。

「静かにおし! よく聞こえないよ!」

数人がはっとして動きを止め、彼女の言葉に耳を傾けた。マヤは強い既視感に襲われて凍りついた。
予期せぬことに、群集は全員イヌの言うことに従い、興奮してぶつぶつ言う者以外は皆おとなしくなった。ハーモニーはマヤの方を見てたずねた。

「あれは……」

しかしイヌがふたたび大声で言った。

「見よ!」

その言葉の響きには、驚くほどのものものしさが感じられた。

「時は来た! 単純な言葉は複雑に、複雑な言葉は単純に!」
「石の上の石は、粉と砕け散る!」
「川は煮え、壁は溶け落ちる!」
「もう時間がない、わしには見えぬ!」

彼女はこれらの言葉を澱みなく言い切った。すると地上からの声がした。

「一体これはどうしたことかね? 壁の上にいる愚か者は誰だ?」

別の者がそれに続き、

「誰か! ここに引きずりおろせ! そのうつけ者をだ!」

群集は、今や大騒ぎだった。イヌは意に介さない様子で太陽を見上げていたが、人々の言うことは聞いていた。褐色のロバに乗った男が、切り捨てるように言った。

「たかが老婆のたわごとじゃないか。相手にするな」
「あの人、大丈夫かしら?」

奇怪な老婆を一目見ようと人々が押し寄せ出し、しばらくしてからついにハーモニーが訊ねた。マヤは何と言ってよいかわからなかった。

「前と同じだわ」

ケンは心配していた。

「これはまずいな、マヤ」

イヌは再び言葉を発した。しかし、今度は明らかに怒りが含まれていた。

「わしを笑いものにしようというのか!」

一人の女性が呼びかけた。

「あなたのお名前は何というのです! あなたこそ、私たちを笑いものにしていませんか? あなたは誰なんです?」
「わしはイヌ! 年老いた者だ! そしてお前は愚か者だ!」

その女性が前に進み出たので、よく見えるようになった。

「何ということを!」

そして振り返って群集に向かって言った。

「ガードを呼んでちょうだい! おかしな女がいますってね」

人々は口々に賛成の意を表していたが、まだイヌに注目している者もいた。マヤは立ち上がり、ケンがそれにならい、ハーモニーも後に続いた。彼らには、人々の数がまだまだ増えていくのが見てとれた。傍らで商売をしていた商人が野次馬に加わったからである。

「何とでも呼ぶがいい! 聞くつもりがないのなら、教えてはやらん!」

その女性が振り向いた拍子に、マヤは彼女が高潔な怒りに駆られ、拳を両脇で握り締めるのが見えた。

「教えるですって? わけのわからないことをぶつぶつ言うだけで、何の意味もない言葉じゃないの!」

不気味に落ち着いた表情で、イヌは彼らには聞こえないほど小さな声で何かを答えた。しかし女性は完璧に怒っていて、群集は拳を振り上げて老婆を罵っていた。

「ばか者!」
「たわごとを言うな!」
「引きずりおろせ! あいつはあぶない奴だ!」

マヤはすでに丘を降りて、銀行のドアの近くにいる群集のところまで来ていた。ハーモニーとケンは、そのすぐ後ろに続いた。マヤはハーモニーに向いて、懇願するように言った。

「あなたは魔法使いでしょう。私たちをあの屋根の上に移動させてくれないかしら?」

事態が急を要することを察知したハーモニーは言った。

「わかったわ、少しだけ時間をちょうだい」

そしてうつむくと、

「秘薬を探さなきゃ」

彼女は小さなナップザックの中を探り、やがて少量の薬草を引っ張り出した。

「いいわ、ケン、マヤ。私の手を握っていてちょうだい」

彼らは身を寄せ合い、彼女が唱えた。

「Kal Ort Por!」

一瞬方向感覚を失った後、マヤは銀行の屋根の上から群集を見おろしていた。群集は、イヌが原因で危険な状態になりつつあった。侮蔑の言葉が飛び交い、暴徒となり始めた群集の中には、それを正当化しようとしている人すらいるようだった。
マヤがイヌの元へ駆け寄ると、彼女はひどく驚き、半分叫び声に近い声で言った。

「マヤ?」
「お婆様! ここで何をしていらっしゃるのです?」

ケンとハーモニーもそばへ駆けつけた。イヌはまだマヤの質問に答えていなかった。

「おお、お前はケンかい?」

イヌの声には、おもしろがっているような甲高いひびきがあった。

「ごきげんよう、お婆様」

彼はおっかなびっくりに言った。彼女の名前を直接口にするのは憚られたし、他に呼び方がなかったからだ。

「この方は知らないわねぇ」

イヌは階下の叫び声を耳にしながら、珍しそうにハーモニーを見た。

「このお嬢ちゃんも一緒なのかい?」

ハーモニーが甲高い声で言った。

「こんにちわ! お目にかかれてうれしいですわ! 私はハーモニー」
「お婆様! 一体あの人たちに何をおっしゃったの?」

答えようとしたとき、突然イヌは頭を抱えてぐらりと前にのめった。マヤが受け止め、ケンとハーモニーが彼女を抱き起こした。

「お婆様!」

マヤは叫び、意識が朦朧としているイヌを揺さぶった。

階下の女性が叫んだ。

「いい考えよ、魔法使い。パラライズ魔法ね。いまガードが来るから、そこで待ってなさい!」

ハーモニーはすっかりショックを受けたようだった。

「私、そんなことしてない……」

ケンは彼女をかばって言った。

「違うと思う、彼女は病気なんだ」

マヤはイヌを地上に降ろすと、急にもろくなってしまった彼女を膝に抱えて介抱していた。彼女は青ざめて血の気がなく、マヤは一生懸命意識を取り戻させようとした。
何の前ぶれもなく、二人のガードが彼らの前に現れ、すぐにことの次第を調べ始めた。

「ご同行願います」

左側の一人が言うと、次の瞬間彼らは石造りの頑丈な部屋の中で、いかめしい顔をした男がデスクに向かっている前に立たされていた。彼の表情は不愉快そうであった。



それからの1時間、イヌはヒーラーのベッドに寝かされ、彼らはブリテインの保安官に厳しくしかりつけられた。そして3人は、イヌが快復した後ただちに街を出ていき、少なくとも3日は街に戻ってはならないという命令状と共に釈放された。

「あなたのお婆様は、あの貴族の婦人を侮辱してしまったようね?」

診療所への道すがら、ハーモニーはそう尋ねた。

「そのようね」

ため息と共にマヤが言った。マヤの母も、イヌ婆を探すだけのはずが、まさかこんなことになるとは予想していなかったに違いない。

「でも、少なくともイヌお婆様は何も罪を犯さなかったわ」
「連中は、あの貴族の婦人がさっきみたいにまた群衆を煽り立てることを心配してるだけさ」

とケンは言った。

木造の診療所の中に3人が入ろうとしたとたん、中から何かが砕ける大きな音とともに、イヌがドアに向かって走ってくるのが見えた。ローブを纏ったヒーラーたちは、用心深く、少し離れたところからイヌを落ち着かせようとしていた。

「大人しくしてください! 危害を加えるつもりじゃないんです!」

とその中の一人が声を上げたが、まるで向こう脛を打たれたかのように後ろにのけぞっていた。イヌは三人を見ると駆け寄り、

「早く! この野蛮人たちは、わしをベッドから出さない気だよ!」

イヌがケンとハーモニーと話しながら外で体を伸ばしている間に、マヤは少しだけゴールドを差し出しながらヒーラーたちに謝った。

「お婆様を許してください。ここ最近、具合が悪くなってしまったんです」

明るい茶色のローブを着た男は、当然のようにそのゴールドを受け取ると言った。

「構いませんよ。私たちは彼女の健康を心配していただけです。でももう、どう見ても元気そのものですね」

「マヤ!」

外でケンの声がした。手早く感謝の言葉を述べると、マヤは飛んで逃げるようにその建物から出た。外にいるはずのイヌたちがいないのを見てマヤは驚いたが、またマヤを呼ぶケンの声が道の先から聞こえてきた。大急ぎで向かい、なんとかイヌの着物をつかんで言った。

「お婆様! どこに行こうとしてるんですか?」

イヌは歩みを止めることなく、

「暗くなってきたねえ。わしは疲れたよ」

とだけ言った。

例の騒ぎの後では、この街で彼らを受け入れてくれる宿などあるはずもなく、また保安官からの命令状を考え、マヤとケンは禅都に戻るようにイヌの説得を試みた。しかし、イヌは二人の言うことに聞く耳を持たない。やがて彼らはブリテインを二つに分ける川にたどり着き、いつしか海へと向かって歩いていた。
ハーモニーがマヤに提案を投げかける頃には、空は夕焼けに染まっていた。

「マヤ?」

しばらくの間誰も口を利いていなかったので、マヤは不意を付かれた。

「あ、なに? ハーモニー」
「ちょっと聞いてみようと思って。嫌だったらそういってくれていいのよ。私、ブリテインから出た後も、あなたたちと一緒に行っちゃ迷惑かしら?」

マヤは立ち止まり、ハーモニーは話を続けた。

「どうしてかわからないけど、そんな気になったの。それに、私、あなたたちの旅を手伝えると思うの」

ケンにもその話は聞こえたが、イヌはそ知らぬ顔で川の土手を歩き続けていた。
考えるまでもなく、マヤはすぐに優しく返事を返した。

「もちろんよ! でも、無理してない?」

ハーモニーは笑った。

「無理だなんて!」

そして、いつになく真面目な調子で続けた。

「それにね、私、少し癒しの技を知ってるの。必要な時にお手伝いできると思うわ」
「いいから、その子も連れてきな!」

イヌが道の先から声を上げた。

「わしに聞こえないとでも思っているのかい!」

ハーモニーは笑いながら、イヌに追いつこうと走り始め、マヤもその後を追った。

4人は、街の東の海辺を海岸線に沿って歩いていた。夕焼けの赤がさらに濃くなっていく中、街のはずれの家を通り過ぎると、ケンは辺りを調べて言った。

「ここがいいんじゃないかな」

そこは森と岸壁の間にあるちょっとした窪地で、夜をしのぐにはもってこいのようだった。

「良さそうね」

マヤが返事した。

「その斜面の辺りでキャンプをすれば、風も吹いてこないと思うわ」
「それにまだ家が見えるから、何かあったら街のガードに助けてもらえるわ」

ケンはうなずいた。

「ちょっと焚き木を取ってくる間、面倒みてて……いや、その」

イヌはケンを凝視していった。

「何の面倒だい? 騒ぎさ! 絶対!」

ここ1、2時間、イヌの話には訳のわからない言葉が混じったりしていた。マヤは一度だけ何のことかイヌに聞いてみたのだが、イヌ自身もわからない様子だったので、それ以上何も聞かなかった。すぐに慣れたが、変な感じだった。
イヌが相変わらずケンを睨み付ける中、ハーモニーがそんな雰囲気を変えるべく言った。

「私も一緒に行くわ。二人で集めれば、すぐ戻れるでしょ」

マヤが黙ってうなずくと、二人は森の中へ入っていった。マヤは草で覆われた斜面にイヌを座らせた。

「かわいい孫や」

マヤはベッドロールを広げようとしていたので、地面に膝をついたままイヌの方を向いて答えた。

「どうしたの?」
「お前は本当にいい子だね」

マヤが驚いて返事をためらっているうちにイヌは横になり、目をつむった。一瞬の後、会話の終わりを告げる寝息が聞こえてきた。

その後、ハーモニーとケンが戻り、3人はキャンプをこしらえるとマヤは2人に話し始めた。

「お婆様が言う変な言葉のこと、どう思う? 具合が悪いだけなのかしら?」
「そうだと思うよ。イヌ婆はいつもちょっと……。みんながイヌ婆のこと何て言ってるか知ってるだろ」

ケンが言った。

「でも、今回これほど馬鹿げた言葉を言うなんて、訳がわからない」

ハーモニーは木の枝で焚き火を突っついていたが、マヤに顔を向けて聞いた。

「魔法使いなの? その、マヤのお婆様は」
「お婆様があなたのように魔法を使うとは思えないわ」

マヤは続けた。

「でも、お婆様には何かが見えるんだと思うの。何かを感じるって言ってるわ」

マヤは消え入りそうな声で言い、ハーモニーは持っていた枝を火の中に投げ入れた。

「そんな気がしたのよ」

ハーモニーが言った。

「だから聞いてみただけ」

マヤは膝を抱え、焚き火の燃えさしを見つめて言った。

「知らないわ。私が考えてるのは、お婆様を禅都に連れて帰ることだけ。今頃お母様、心配し始めているだろうし」

焚き火の向こうに、間に合わせの寝床でも、できるだけ心地よくしてあげようと苦心して寝かしつけたイヌの姿が見えた。

(彼女は気づきもしないでしょうけど)

そう思いつつも、彼女は責任を感じていた。

しばらく自分たちの置かれている状況を互いに話した後、ケンは自分のベッドロールを出すと夜空を見上げた。

「その通りだよ。明日は街を通り抜けてムーンゲートに向かわなきゃ。通るくらいならガードも許してくれるさ。もう暴徒もいないだろうし」

ハーモニーは興奮した様子で言った。

「最高ね! 私、あなたたちの故郷を絶対みてみたいわ」
「彼女を説得できたらの話だけどね」

ケンは、イヌを指しながら注意した。マヤはうなずき、自分の毛布に包まると、

「明日なんとかしましょ」

と、疲れきって答えた。



トランメルの月がゆっくりと夜の空を昇り、明るく輝くフェルッカの月が地平線に見えた頃。
イヌはこっそりと起き上がってベッドロールをたたむと自分の荷物にくくりつけ、消えかけている焚き火の灯りの届かないところへと歩いていった。イヌは寝ている三人を一瞬思いやるように見やったが、じきに森の中へと姿を消した。

(第二章へ続く)


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