Part T:復活
「光は明るくなるほど、落とす影は暗くなる」
(マラス第一時代 マラス議会 グレッド・タシラール)
ゲートウォーターを抜けて
グレイン(Greyn)が見張りを務めるマストのてっぺんからは、ブリタニアの大洋が果てしなく続いているように見えた。船の周囲では、嵐が近づくにつれてうねりが高くなっている。空は黒い雲に覆われ、まるで世界全体が使い古して毛羽立った毛布に包み込まれたようだった。彼はマストにしがみ付いた。風は次第に冷たく、船の揺れは大きくなり、波はますます機嫌を悪くしていく。甲板を見下ろすと、船首の近くに弟のモーディン(Mordin)が立っていた。彼が海図に見入るその姿は、間近の危険などまるで眼中にないといった様子だった。
「モーディン!引き返すぞ!」グレインは叫んだ。しかしモーディンは、海図を見つめたまま、黒い巻き毛を激しい潮風になびかせる以外は、身動きひとつしない。渦巻く波と風の唸りとハイウィーター号(Highwater)の船体がきしむ音に自分の声がかき消されてしまったのか、それとも弟は、また周囲の状況が見えなくなってしまっているのか、グレインには判断が付きかねた。
「モーディン!」グレインは怒鳴った。それでもモーディンは動かない。「あの馬鹿は、ドラゴンが突進してきても、ぼんやり突っ立ってるヤツだ……」グレインはぶつぶつ文句を言いながらマストを下り、甲板に立った。「モーディン、船の向きを変えるぞ、手伝え。この嵐じゃ、オレたちにはとても歯が……、モーディン?」彼は甲板を踏みつけるようにしてモーディンのところへ歩いて行くと、彼の目の前に立ち、小柄な弟の顔を見下ろした。モーディンの黒くて長い髪は風にもまれ、怒った猫の尻尾のように背中で暴れていた。それは、彼のギラギラとした鋭い眼差しによく似合っていた。
「兄さん……西へ行こう。西はまだ見てないだろ。西を確かめなくちゃ」モーディンは海図から目を離さずに言った。
「それより空を見ろ。今すぐ引き返すんだ」グレインは海図を手で押しのけた。そうしてようやく、グレインはモーディンと目を合わせることができた。「急いで逃げないと、オレたちはこの嵐の昼飯にされちまうぞ」
「でも、まだ西を見てないじゃないか、兄さん。西にいるかもしれないんだぜ」モーディンの眼差しは力強く、しかし悲しげだった。
「もう2年も探して会えないでいるんだぞ」グレインは弟の肩を掴んで言った。「無茶をすれば、会えるもんにも永遠に会えなくなる」
グレインはため息をつき、遠くを眺めた。「もう一度、ゆっくり考え直すべきときかもしれない」
「どういう意味だ」モーディンは食ってかかった。
グレインは甲板をゆっくり歩きながら言った。「1年以上もかけて探し歩いてきたんだ。オレだって、お前と同じぐらい父さんに会いたいよ。だが……モーディン、現実を見つめるんだ。父さんはもう帰ってこない。帰る気があるなら、とっくに帰ってきてるさ」
「父さんは冒険家なんだぜ。どこにいようと元気でやってるさ」モーディンは西のほうを見て言った。
グレインはがっくりと肩を落とした。同じことを何度言えばわかってくれるのだろうか。「もし、父さんと生きて再会できる運命にあるなら……」
「生きてるさ」
「再会できる運命にあるなら、いつかかならず会える。だが、今ここでハイウォーターもろともオレたちまで海に飲み込まれたら、すべてが水の泡だ」モーディンの表情は虚ろなままだった。「針路を変える。手伝え。この嵐は、しばらくここに留まりそうだからな」モーディンは未練がましく再び西の方角に目をやると、しぶしぶ兄の手伝いを始めた。
嵐から抜け出ようと黒い雲の下を何時間も航行したが、泡立つ高波はますます激しくハイウォーター号を揺さぶり、船体は気分を悪くした海の怪物のような悲鳴をあげた。風の強さが尋常ではなくなったため、兄弟は慌てて帆を畳んだ。あとは、容赦なく叩きつける波しぶきに目を開けることもままならず、2人は甲板の手すりにしがみついているのがやっとだった。
「こいつは普通じゃない!」グレインは吹き荒れる風のなかで叫んだ。
「完璧な兄さんが判断を誤るなんてな!」モーディンが怒鳴り返した。
「そうじゃない、ハイウォーターだ!この船の様子が変なんだ!」大きな波に煽られ、無理な力に抵抗して甲高い音を立てるマストに気を配りながらグレンは答えた。「船の速力が増してる!帆を畳んだのに、前より速く動いてるんだ。オレたちは流されてるんだよ!」
激しく打ち付ける雨の中でモーディンは大きく目を見開いた。「兄さん!潮の流れがこんなに速いのは、たぶんアレのせいだ」
グレンは船首のほうへ目を向けると、そのまま表情を凍らせた。驚いたグレンは、甲板の上に身を乗り出し、遠くの海面を凝視した。グレンには、そこで海が突然途切れ、海が虚空に流れ落ちているように思えた。しかし、嵐にかすむ水平線をよく見ると、それは海の中の巨大な割れ目だった。その周囲では、いくつもの潮の流れが合流している。ハイウォーターは、その割れ目に引き込まれるように、ぐんぐん速度を上げてゆく。咄嗟にグレンは、そこに待つ自分たちの運命を悟った。
グレンはきびすを返すと必死の思いでモーディンに駆け寄った。「渦巻きだ!しっかり捕まってろ!渦巻きだ!モーディン!どもでもいからしっかり捕まって、絶対に手を離すんじゃないぞ!」
船は、まさに嵐の中の砂粒のように、ものすごい速さで渦巻きに引き込まれていった。ハイウォーターは渦巻きの縁に達すると、甲板の兄弟を放り出さんばかりに、恐ろしげに回転する水面に沿って大きく右に傾いた。そのまま船は、さらに速度を上げ、風切り音を立てながら渦巻きの内壁に沿って回転を始めた。槍のように横殴りに渦巻く雨を通して、モーディンは渦巻きの口が遠ざかるのを眺めていた。船は、巨大な海の壁を下へ下へと落ちているようだ。深度を増すにつれ、周囲は次第に暗くなり、やがて船は漆黒の闇に包まれてしまった。モーディンが最後に聞いたのは、マストが粉々に砕け散る音だった。
肌をかすめてゆく寒さ以外に何も感じなくなってから、何年もの時が経ったような気がする。光も音も、空気や温度さえも消えうせ、ただ猛烈な速度で吹き抜ける冷たい闇だけが存在しているようだ。相変わらず渦巻きの中でもみくちゃにされている状態にありながら、なぜか周囲は静かだった。自分は死んでしまったのか、あるいは何らかの方法で無意識状態の自分自身を感じているのか、モーディンには判断がつかなかった。体の感覚はなくなっていたが、混乱に襲われながらも、頭で考えることはできた。時間はどこかへ飛んでいってしまったようだ。だが、永遠の中に閉じ込められたという気もしなかった。
光が闇を貫き、モーディンの混乱を打ち砕いた。その瞬間、暗く荒れ狂う波にもまれ回転するハイウォーター号の手すりにまだしがみついている自分自身を、彼はかすかに見ることができた。船体は真っ二つに折れているようだった。へし折れたマストは、ギザギザの折れ口を壊れた甲板から突き出していた。ぐるぐると回る光の中に、一瞬、グレインの姿が浮かび上がった。だが、生きているのか死んでいるのか、そこまでは確認ができなかった。光は、闇を切り裂くように次第に強くなっていった。船は不安定に揺れながら、その光に向かって進んでいる。光る裂け目の中へハイウォーター号の残骸が流れ込むと、光はどんどん大きくなり、ついには、さっきまで彼らを包んでいた闇に代わって光が周囲に広がった。同時にモーディンの感覚は薄れていった。
光は、現れたときと同じように、突然消えうせた。そしてモーディンは、再び闇に落ちた。
「この人は大丈夫そうだよ、ファラ(Falah)」
モーディンは手足に体温が戻ってくるのを感じとった。そして、閉じた瞼の外側で光と影が動いている様子を感じることができた。顔と髪の毛には砂粒の感触。ローブはぐっしょり塗れている。彼の目に再び周囲の様子が映し出されてゆくと、そこには彼に覆いかぶさるようにして立ってる大男の姿があった。彼は微笑んでいた。少し離れた場所では、若く美しい女性に支えられてグレインが立ち上がろうとしていた。
「ここは……いったい?」モーディンは立ち上がろうとしたが、足に力が入らずよろけてしまった。すかさず大男が彼の肩を掴み、転ばないように立たせてくれた。
「慌てなさんな。まあ、落ち着いて」男は低い声で言った。「あそこを通ってきて、五体満足でいられるだけでも感謝しなくちゃな。このゲートウォーター湖(Gatewater Lake)の岸にゃ、生存者と同じぐらいの数の死体があがる」
グレインは、若い女性に支えられながら倒れ込むようにしてモーディンに駆け寄ると、彼の頭を両手で掴んで言った。「無事だったか、モーディン?」
「ああ……うん。そうみたいだ」モーディンは呆然と答えた。しかし、兄を見つめる彼の顔からは、かすかに笑みがこぼれた。モーディンは、自分を助けてくれた男のほうを振り返った。「ここはどこですか?トリンシックからは遠いのですか?」そこは、彼らのほかには見渡すかぎり水と砂の土地だった。
男は気まずそうに若い女性のほうを見ると、モーディンに向き直って答えた。「ああ、気の毒だが、トリンシックはずっと向こうだ。オレはグレベル・ブランズマン(Grevel Brandsman)。そしてこれは、娘のファラだ」彼は女性を指し示した。
彼女は兄弟に微笑み、小さな声で言った。「ようこそ、マラス(Malas)へ」
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